亡き人たちへの供養を忘れない

                安井美恵子

 

平成二十一年七月二十七日、夫婦共に八十路を歩く私たち二人は、かねてより念願だった来世の道標を建立することが出来ました。夫は自筆で「平和」と大きく書きました。

昭和初期の生まれである二人。父二人は支那事変、兄四人は第二次世界大戦に参戦しました。夫の兄二人は海軍、私の兄二人は陸軍でかけがいのない人生を、大きく狂わされました。

 

義兄は

 

夫の長兄は瀬戸内海に於いてグラマン戦闘機により、マストで見張りをしていて、爆撃により多くの破片を身体に受け、命は取りとめたものの、その後の人生を大きく変えさせられました。十四年間の小学校長を務めた兄は、内面と外面での行き方、考え方が異なり、家族は大変な苦しさを味わいました。

昨年、法要の席を借り、私は自分史として投稿した「孫たちへの証言」の中で、義兄と同じ戦艦「日向」で同じ体験をされた方の手記を詠み、兄の遺児に事の真相を話しました。真相を語らず、自分が生き恥をさらしたとの生き方を続けた義兄の人生、その海軍にて病気となり、何の手当てもなく、二十二歳で亡くなった次兄、それを見取った両親の心の中はいかばかりだったでしょうか。

 

 

私の兄は

 

鉄部隊としてルソン島で散った私の長兄、届けられた骨壷の中には、「氏名」を書いた紙が一枚入っていた。兄の出征後に生まれた娘も、妊娠八ヶ月でこの世を去ってしまいました。おそらく親がいたら、死ぬこともなかったと思います。兄の戦死後、子供を残して再婚した兄嫁、当時十四歳だった私は母親代わりとして育てました。

 

三番目の兄は

 

昭和二十年八月五日八時、西部軍管区司令部に二等通信士として入隊した三番目の兄は、翌八月六日、原爆により終戦前八月十三日、十七歳の命を奪われました。

 

あれから六十三年

 

当時学生だった私は、その日から二歳下の弟と一家を支えることとなり、折からやって来た黒人兵に脅かされつつ、鍬と鎌で身の安全を守り働き通しでした。衣類も下着から手縫いでやってきました。あれから六十三年、兄嫁の家族と交流し、姪の墓守を約束してくれた兄嫁の家族と共に心からの交流を続け、亡き人達の供養を続けています。

昔から過ちは繰り返さないでと願いつつも、人の世は絶えず変動し、日本をはじめ世界中の雲行きは揺れ動いています。

あれほど願っていた平和を手にした私たち、決して幸せとは言えません。

あたりを見渡せば一鍬々々開墾した農地には、地面を覆い尽くす雑草、その中で風に舞うゴミ、心を痛めつつも何一つ発言さえ危惧される現代社会。亡き母が「土地が荒れれば人の心も荒れる」とよく言っていた。心が荒れれば争いが起こる。そんな争いも拡大すれば・・・・・。

自分から行動しなければ、家族以外の人には会うことさえない高齢者となり、「これでいいのかな、何かできることはないか」と、繰り返しつつ、「亡き人への供養を忘れないこと」と心に決めて生きる毎日です。

                    (境港市麦垣町・2009年8月)

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