原発事故 人類の過ちという視点

長谷川 渉

  (日本キリスト教団境港教会・牧師)

8月6日、第66回目の原爆の日の平和記念式典が広島で行われました。式典の中で首相が原爆死没者慰霊碑に向かって献花を行いましたが、その碑には次のような言葉が刻まれています。『安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから』。


碑は敗戦後7年目に建てられましたが、当時の広島市長の次のような言葉がもとになったそうです。「この碑の前にぬかずく一人ひとりが過失の責任の一端を担い、犠牲者に詫び、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ一つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」。ところが、この碑文の内容について、後に激しい反発が起こりました。『過ちは繰り返しませんから』と刻まれているけれども、過ちを犯したのは原子爆弾を使用したアメリカではないのか。『過ちは繰り返しませんから』ではなくて『過ちは繰り返させませんから』と記すのが正しいのではないか。この反発は、最終的には、刻まれてはいないけれども、碑文の主語を『人類』とし、『人類の過ち』と解釈することで収まりました。原爆によって被害を受けた自分たちも、状況次第ではその過ちを自分たちが犯す側に立つ可能性だってあったかもしれないのだから、という思いをもって、過ちを繰り返さないことが今日まですべての人の確かな願いとなってきたわけです。

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ところが、2011年、最も繰り返してはならない過ちを繰り返えす時が来てしまいました。原子力発電所の事故によって大量の放射能が漏れ、被爆の恐れが全国規模で広がっていっている。かつての原爆に続いて、被爆という過ちを繰り返してしまったのです。

「電力会社や、原発を推し進めていた国が全部悪い、私たちはただ平穏に暮らしているだけなのに」という思いは誰にでもあると思います。けれども、そればかりに囚われてしまう時、かつての原子爆弾投下を、アメリカだけの過ちとして片付けてしまおうとした『過ち』を全ての人が再び『繰り返して』しまうことになるのではないでしょうか。日本人は、戦争も原爆も『人類の過ち』と捉えることができたから、今も武力を放棄して歩むことができているのだと思うのです。何か大きな過ちが起こったとき、直接そこに自分が関わっていなくても、どれだけ自分の問題、人類の問題として受け止めることができるかという視点が、これからひとりひとりが原発事故の問題を考える上でも、非常に重要になってくるように思うのです。原発の現状が収束に向かうことを祈り願います。

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